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Review
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The Black Mound-踊る人びと」きくプログラムトークにて 左・中島那奈子、右・平井優子

The Black Mound  -踊る⼈びと-  

構成演出 平井優子

2021年5月9日(日) 倉敷芸文館 アイシアター

​テキスト 中島那奈子

 ホールの入口を入ると、古い、少し黒ずんだ糸車が置かれている。能「黒塚」の鬼女は、夜な夜な糸を紡ぐとされ、その時に使われるのが糸車だ。倉敷の街が、紡績と共に日本の近代を歩んだことを思うと、この近代紡績の原型である糸車が、この黒塚の鬼女伝説と倉敷とを繋ぐ不思議な巡り合わせを感じる。

 円形のホールに足を踏み入れると、床に敷き詰められた藁の匂いに包まれる。丸く円を描くように置かれた藁は、儀式の場のようでも、インスタレーションのようでもある。丸い空間の壁に沿って、観客用の椅子が並べられている。開場中には、ホール内のモニターから出演者のインタビューが流されている。

黒塚

 黒塚は、福島に伝わる鬼女の話である。古くから和歌や説話の中で伝えられていたが、その後、15世紀中頃に能の「黒塚」もしくは「安達原」が作り出された。

この「黒塚」では、那智の東光坊、阿闍梨祐慶らの山伏が、旅の途中で、貧女の荒屋に一夜の宿を借りる。女は糸をつむぎながら、苦しく長い人生を歌い、自分の留守中にその寝室を覗かぬよう山伏を諭して、裏山に薪を取りに行く。祐慶の従者の一人が、女との約束を破って寝室を覗くと、そこに死体の山が積み重なる惨状を見つけ、ここが鬼の住処であると一行は逃げ出す。寝室を見られ怒りに燃えた鬼女が、その後を追ってくるが、山伏たちが呪文を唱え祈り伏せると、鬼女は自分の正体を恥じ呪いつつ退散する。

能楽の「黒塚」は、三鬼女と呼ばれる演目で、後半で「般若」か「シカミ」の面をつけて演じる。この「般若」は人間であったものが鬼となった面であり、それは、小松和彦のいう人間が鬼になる二つの契機――過度の恨みや悲しみと歳をとりすぎること――が凝縮されているかのようである。

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「The Black Mound -踊る⼈びと-」 

 この作品に登場するのは、岡山で踊りを続けている二十代から五十代までの女性たちである

(矢鳴千奈美、田中淳子、山口佳子、山本文、高山叶)。暗転すると、鈴虫の音が静かに響く中、中央に敷かれた藁が青くぼうっと浮かび上がる。言葉にならない声が暗闇に混じるとともに、薄暗がりの中、気がつくと出演者四人が、その藁を囲んでいる。藁の中央に立つロングドレスの女性が、赤いジャケットを羽織ると、途端にその場が厳かな雰囲気に包まれていく。

 照明が明るくなると、オーディションが始まる。赤いジャケットの女性が、椅子に座る3人の出演者と、モニターに映し出された出演者に、名前や年齢、意気込みや得意なダンスを聞いていく。全てセリフは録音されたもので、その声に合わせてダンサーたちは体を動かす。当日パンフレットに、一年以上ワークショップを行なってきたとあり、これはそのプロセスを作品化した部分だろうか。様々なダンスが、その人の歴史とともに紹介される。床を転がる踊りと説明されるコンテンポラリーダンスの不思議さだったり、ミュージカルのような心踊る楽しさだったり、バレエの金平糖の精の華麗な静けさだったり。一概にダンスといっても、様々なジャンルや動き方があって、それを見ている観客の私たちが受ける印象も実に様々である。

 そのうち、次第に辺りは薄暗くなり、不安な音がし始めると共に、ダンサーたちがゆっくりとポーズをとりながら動いていく。マクベス夫人のような両手を前に突き出して動く振りや、なんばで鍬を動かすような動き、しゃがんで体を倒し、交差させた手を芯にして、円を描きながら、体を上に引き伸ばしていく。それらの奇妙な動きをソロで、ペアで、振動する音響と共に、続ける。これは何かの儀式なのか、それとも何かの前触れなのだろうか。

 場面が変わって、赤ジャケットの女性が、椅子に座る女性たちに、問いかける。「黒塚では、安達原に住む鬼の存在が描かれているわけですが、岡山にも鬼と切り離せない文化が存在しますね。あなたは鬼の存在をどう思いますか。」問いかけに答えるように、出演者たちも鬼の解釈を話していく。山の中での孤独がその人を鬼にしたり、わからないものに対する恐怖が鬼であったり、怖いものや心の中にある負の感情が鬼となったり。鬼は、結局のところ、人の手によって作り出されるものなのかもしれない。人間が孤独に陥ること自体、周りの人間の無関心で起きることなのだから。

 

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 尺八を思わせる管楽器の呼気音が鳴り響く中(音楽:DOWSER、原摩利彦、Ensemble GERRA)、出演者3人がそれぞれ一連のソロを見せる。踊る方向や踊り方が異なるので、同じ振りであるとは一見わからない。そうかと思うと、突然リズミカルな音楽が始まり、空間は明るく楽しい雰囲気で埋め尽くされる。それぞれの出演者が、回転する動きを基調にしながら、時に一緒に、時にバラバラに踊ることで、振付でのリズムを作っている。置かれた椅子に座ったり、つかまったりしながら、場所を変えて見せるパーティのようなダンスは、感情や意味が動きから削ぎ落とされ抽象化され、使いまわされていない動きが、丁寧に選ばれて組み合わされている。

 その宴が終わると、舞台には、二人の出演者が残って、向かい合って椅子に座る。そのうちの一人が、首に巻いていたモコモコしたスカーフを、もう一人の出演者の顔の前に付け替える。顔の前に、飾りを吊り下げて円の中央に立つ女性は、どこか、先住民の長老のような、ジェンダーも年齢も超えた、厳かな雰囲気を放つようになる。ロングドレスに赤いジャケット、そしてその上に黒い制服のような上着を羽織って、頭から揺れ動く飾りをつける。重ね着された衣装には、かつての流行服が折り重なり、それが美術のアッサンブラージュのように一人の身体の上に、過去の時間を堆積させる。(衣装:井上直美)

 うす光の中で、一人で蠢いているその存在に対峙するかのように、奥から、杖をつき全身黒づくめの者たちが現れる。中央の円を取り囲みながら、金剛杖のように、杖を床に叩いて音をたて、邪気や悪者を追い払い、はたまたそこに何かを呼び込もうとしているかのように歩き回る。一定のリズムで響く音は、三人の揃った足並みによってその場を清めながら、規律ある時空間を立ち上げていく。

 その中央に立つ老女は、何か振りかぶったものを打ち下ろしたり、中央でクルクルと回り始めたり、時には腰を落として杖を地面に突き刺したり、また、地面から何かを拾って上にあげて捨てるような、言葉にならない仕草を黙々と、続けている。その老女の動きが、周りの三人とシンクロしたり、その動きのモチーフが三人の動きに変奏され、うつっていったりする。みんなで一緒に合わせて踊っているわけではないものの、三人のあいだに奇妙な繋がりが見えてきて、それが何かこの世のものではないものが現れる雰囲気を醸し出していく。次第に、繰り返しの動きが早まり、シュッシュッという何かが通り過ぎるような音とともに、周りの三人は、藁の周りを走り始める。低い声で、黒塚の文句がどこからともなく聞こえてくる。

 女は、円の中央でふと立ち止まり、頭からつけていた髪飾りをとる。周りの三人も動きを止め、円の縁にそって老女を見ながら立ち尽くしている。周りの対峙する存在が目に入り、我に帰ったかのような女は、ゆっくりと目の前の椅子に座るとともに、その脇を通り抜けて、他の三人はどこかへと立ち去っていく。静かに、そしてまた、鈴虫の音が聞こえてくる。

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月の踊り

 ヨーロッパ滞在時に、20世紀を代表するバレエ団であるバレエ・リュスの公演を見て感動した、歌舞伎俳優の二世市川猿之助は、猿翁十種とされる新舞踊「黒塚」を1939年に上演した。

これは、能「黒塚」を歌舞伎化したものだが、これまでの黒塚にはなかった「月の踊り」という場面が加えられている。

大きな三日月に、舞台一面の芒野原。主役の老女、実は安達原の鬼女は、裏山に薪を取りに行く途中、秋の月の光に浮かれだし、しみじみと自分の影と戯れて、無心に踊る。猿之助は、渡欧中に歌舞伎舞踊を見せたバレエ・リュスのレオニード・マシーンから、横に長い芝居小屋での舞台のため、振付が横の動きに終始していると指摘されたという。そのため、歌舞伎舞踊にはなかった奥行きの動きを加えた「月の踊り」は、より立体的で躍動的な振付がなされている。

また、なんばで動いて、老女の関節の硬さを感じさせ、爪先を使い上半身をふわふわさせて高揚した気分を見せるなど、新舞踊と呼ばれた実験が見られる。鬼となった老女の心のひだを動きで見せるこの「月の踊り」は、今回の「The Black Mound  -踊る⼈びと-」の最後のシーンに、繋がっているように感じていた。

 

踊り続けることと鬼になること

 黒塚や道成寺などの鬼女に関する説話によく見られるのは、鬼退治という語り方である。鬼は、反自然、反秩序の象徴であり、男性は心変わりや約束を破ることが許されるのに対し、女性の嫉妬や怨念はその邪悪な本性によるといった見方が根底にある。女の悪心を批判し、男たちに注意を促すという「鬼女譚」には、この女性がなぜ鬼になったのか、また、誰によって鬼にさせられたのかという視点が欠けている。

 今回の公演で印象深かったのは、そのような黒塚の鬼退治ではなく、黒塚の鬼女はなぜ鬼になったのか、という過程を捉えていたことである。退治すべき鬼女として外から批判し突き放すのではない、鬼女への深い共感があり、そしてその黒塚の伝説を、自分のこととして考えようとする、踊り手の視点が重なっているように感じた。そして、この鬼女への共感を、私は「老いと踊り」という視点でも捉えていた。長く一人で踊り続けることは一つの枠組みからはみ出すことで、そしてそれは鬼になっていくことなのだろうか、と。

 

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誰が人を鬼にするのか

 人はそれ自体では、孤独にはならない。人を孤独にさせるのは、それ以外の集団や社会との関係においてである。老女が月と戯れている最後のソロでは、その伸び伸びとした自由を謳歌し、心ゆくままに踊る。それを、山伏が取り囲み、杖を打ちつけて包囲する時、そこに、鬼とその他の集団との関係が現れてくる。社会や集団の掟のなかでこそ、孤独や排除がおきてくる。それは、ダンスの動きにおいても、ソロとその他の群舞のあり方として連想されてくる。山伏によって黒塚の女が鬼となったように、掟を持つ社会がそこから外れた存在を鬼にしていく。それは、体制と個人の関係とも、為政者と弱者の関係ともなるのかもしれない。他者への無関心が強まるときに、人は安達原に行きついてしまうのかもしれない。

 そして、黒塚の鬼女伝説の新たな読み直しは、この岡山という地で更なる意味が付け加えられる。岡山に残る桃太郎伝説は、大和朝廷からみて、退治されるべき温羅が「鬼」とみなされた物語でもあった。中央の体制と対立する、吉備のローカルな視点で見たら、その人間は鬼ではなかったのではないか。そういった「鬼」とされた温羅伝説を持つ岡山でこそ、新しい「黒塚」が生まれる、不思議な巡り合わせがあるようにも感じていた。

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